皆死んで居ないので、もう誰も住まない生家の片付けに帰った。近々ここいら一帯が人の住まない土地になるそうだから、これが最後だろうと言う気持ちで広く静かな家の中を行ったり来たりしている。
 蔵を検める為に裏庭へ出て見ると、永い事手入れのされていない草木や花が野生に還り、好き勝手に蔓延っている。庭の奥に被さった山から野良藤がこっちまでせり出しており、目の粗い泡の塊の様な真白の花が、ぼろぼろと沢山ぶら下がっている。私は藤が苦手だった。夜になると暗闇の中に花だけが仄かに光を帯び、何か形になる間際の覚束ないものが白々しく宙に浮かんでいる様に思われ、それが非常に怖ろしかった。
 盗人にくれてやっても構わない様な品々はそこへ放って置く事として、あらかた片付けが済んだので、座敷を開け広げて縁側に腰掛けている。幼い時分には周りの山が地の果てまで続いているのだろうと考えていた。歳を重ね、外の事情を知った今となっても、ここで緩やかな風に吹かれる分には、やっぱり幼い私が感じていた事が本当だったのではないかと言う気になって来る。外で見聞きした事は皆まぼろしの如きであって、うつつと混ぜこぜにしている内に、自分がまぼろしの仕組みに依り過ぎただけではないか。
 裏庭から人の声がしたらしいのでその方へ行って見ると、藤の花が夥しく垂れ込めている後ろに、誰か立っている。花に隠されて顔は見えないが、覚えのある姿だった。
「やあ。誰かと思えば。大きくなったね」と、私の知っている声で言った。
「お久し振りです。まだこの辺りに居られたんですね」

 ひどい雷の夜が明け、幼い私は薪になる倒木を探しに山へ入っていた。水気の残る草を払いながらうろうろしていると、古沼の傍に丸々と太った大木が倒れており、その上に知らない男が腰掛けていた。私は気が付かれない内に逃げようとしたが、それよりも先に、
「やあ。昨晩は凄かったね。君、この辺りの子かい」
「うん」
「そう怖がる事はない。こっちへ来て座ると良い。どうやらこの山に居ると言う話だからね。捕まえたら直ぐ帰るよ」
「ええもんがおるの」
「ああ、素晴らしいものさ。そうだ、君、こんな鳥を知らないかい。鶏に似ているんだけれどね、頭が三つあって、翼も三つ。それで、足は六つあるんだ。へつふと言う名前なんだが、聞いた事ないかな」
「そんなんがおるん。おれ、知らんよ」
「そうか。そうか」と男は微笑み、
「若し見掛けたら、教えて欲しいんだ。帰ってから、お父さんやお祖父さんに訊いてご覧。きっとここに居るそうだからね」
「それ捕まえてどうするん」
「食べるのさ。食べるとね、眠らなくても良くなるそうだ」
「寝んで何するん」
「勿論、起きとくのさ」
 それから男はずっと山に居た。時折出会う事があり、私たちはその都度に話をした。男は外から来たらしく、私に外の物事を聞かせてくれた。
 学校へ行く為に外へ越す事になった時も、へつふは未だ見付かっていない様だった。「沢山学んでおいで」と言ったのが、最後に聞いた男の言葉だった。

「あれから見付かりましたか」
 訊きたくなぞなかったが、訊かなければ片付かないから私は訊いた。
「いいや。未だ見付からないんだ。あちこち捜し回ったんだけれどね、どこにも居ない。随分捜したんだけれど」
「山のこっち側には、その藤みたいな変な形をした木が沢山ある。向こう側では、今はどうだか知りませんが、昔は翡翠が取れたらしいですね」
 それきり私は黙っていた。男も藤の花の中に埋もれるばかりで、言葉を発する事はなかった。藤は苦手だが、男は好きだったから、私は目を離さなかった。
「夜になると藤が怖いんだろう」
「はい。今でも怖いです」
「しかしね、今は感謝しなくちゃいけないよ。怖くても良いから。いや、怖いから良いんだ」
「はい」
「それじゃあ、達者でね」
「はい。お元気で」と言って、私はお辞儀をした。
 暫くそうして地面を見ていた。家を通って来た風が私の脇をすり抜けて行くのを感じた。顔を上げると、風に吹かれても少しも揺らぐ事なく、藤の花が静かに垂れていた。(了)